世界で最も価値のある企業が、データセンターでもゲームでもなく、「創薬」に10億ドルを投じる。半導体の巨人はなぜ「薬」を作ろうとしているのか?
「JPモルガン・ヘルスケア・カンファレンス」という舞台
2026年1月12日、サンフランシスコ。製薬業界の「スーパーボウル」と呼ばれる第44回JPモルガン・ヘルスケア・カンファレンスが開幕した。8,000人を超える製薬・バイオテック企業の幹部、投資家、政策立案者が集結するこの場で、エヌビディアとイーライリリーは共同で10億ドル(約1,550億円)を投じるAI創薬ラボの設立を発表した。
このカンファレンスは、毎年その年の製薬業界の方向性を占う場として知られる。大型M&Aの発表、新薬パイプラインの進捗報告、そして業界を揺るがす提携の発表。エヌビディアがこの舞台を選んだことは、同社がヘルスケア市場を「次の主戦場」と位置づけていることを示唆している。
売上の88%を稼ぐ「データセンター」の次
エヌビディアの収益構造を見ると、その集中度が際立つ。2025年度の売上高1,305億ドルのうち、データセンター事業が88%を占める。自動車事業は1.3%、わずか17億ドルに過ぎない。
時価総額3兆ドルを超え、世界で最も価値のある企業となったエヌビディアにとって、この「一本足打法」は強みであると同時にリスクでもある。データセンター向けAIチップの需要が鈍化すれば、成長の勢いは急速に失われる。ジェンスン・ファンCEOが「次の成長市場」を積極的に開拓する背景には、こうした事情がある。
JPモルガン・ヘルスケア・カンファレンスの初日、エヌビディアはイーライリリーとの提携に加え、IQVIA、Illumina、メイヨー・クリニック、Arc Instituteとのパートナーシップも発表した。臨床試験の効率化、ゲノム解析、デジタル病理学、手術ロボット。エヌビディアは「10兆ドル規模のヘルスケア・ライフサイエンス産業」に対し、全方位で攻勢をかけている。
24時間365日、止まらない実験室
今回設立されるラボの核心は、「ドライラボ」と「ウェットラボ」の融合にある。
ドライラボとは、コンピュータ上で分子シミュレーションやデータ解析を行う計算科学の領域。ウェットラボとは、実際に試薬や細胞を使って実験を行う物理的な研究室だ。従来、この2つは別々に運営され、研究者が両者のあいだを行き来しながら、仮説を立て、実験し、結果を分析するというサイクルを繰り返してきた。
エヌビディアとイーライリリーが目指すのは、このサイクルを「24時間365日、自動で回し続ける」システムだ。AIが分子構造を予測し、ロボットが実験を実行し、その結果をAIが学習して次の仮説を生成する。人間の研究者は、個々の実験を手作業でこなす作業者ではなく、全体の方向性を決める「戦略的リーダー」へと役割を変える。
このシステムの基盤となるのが、エヌビディアのBioNeMoプラットフォームと、2026年に投入予定の次世代アーキテクチャ「Vera Rubin」だ。サンフランシスコ・ベイエリアに設置されるラボには、イーライリリーの生物学者・化学者と、エヌビディアのAIエンジニアが同じ屋根の下で働く。
製薬会社が「半導体企業」と組む理由
イーライリリーにとって、この提携は「次の150年」への布石だ。
時価総額1兆ドルを超え、ヘルスケア企業として初めてこの大台に到達したイーライリリーは、GLP-1受容体作動薬「ゼップバウンド」の爆発的な成功で知られる。しかし、製薬業界には常に「次のブロックバスター」を生み出し続けなければならないという宿命がある。
2025年10月、イーライリリーは「製薬業界で最も強力なAIスーパーコンピュータ」の構築を発表した。1,000基のエヌビディアBlackwell Ultra GPUを搭載したこのマシンは、インディアナポリスの本社に設置され、2026年第1四半期に本格稼働する予定だ。今回のラボ設立は、この投資をさらに加速させるものとなる。
デイビッド・リックスCEOは、発表の中でこう述べている。「私たちのデータ量と科学的知見を、エヌビディアの計算能力とモデル構築の専門性と組み合わせれば、創薬を根本から再発明できる」。
ジェンスン・ファンCEOもまた、野心を隠さない。「AIはあらゆる産業を変革しているが、その最も深い影響はライフサイエンスにあるだろう」。半導体の半導体の巨人と製薬の巨人。「AIで創薬を加速する」という目標のもと、両者の利害が重なり合う。
